1918年 | バスマチ蜂起本格化、アーリム・ハーンなどが陣頭に立って蜂起を主導する。 |
1918年 11月 | ユゼフ・ピウスツキ、ポーランド第二共和国の独立を宣言。ほぼ同時期に西ウクライナ人民共和国に対し侵攻を開始、東ガリツィアを併合する。敗北した西ウクライナ人民共和国政府はウクライナ人民共和国に亡命。 |
1919年 | ポール・アンリを団長とするフランス軍事顧問団が派遣される。ロシア・ドイツ軍の影響を受けていた旧態依然のポーランド軍はこの頃のフランス軍事顧問団の支援によって改善される。 |
1919年 1月 | 南ロシア軍が結成される。しかし中心人物であったアントン・デニーキンは赤軍との交戦中に重傷を負い指揮権をピョートル・ヴランゲリへ委譲する。 |
1919年 2月14日 | ポーランド軍、以前より衝突を重ねていたソ連に侵攻開始。ミンスク・キエフを瞬く間に陥落させ、多数の赤軍部隊を包囲。降伏させることに成功する。 |
1919年 春頃 | ニコライ・ユデーニチ率いる北西軍、ポーランド軍の攻勢に乗じペトログラードへ向け侵攻を開始する。当初は上手くいったもののペトログラードは陥落せず、赤軍の反攻により後退。 しかしカレリア地峡以北はヴランゲリがフィンランドの独立を承認し、協力を得ることに成功したため引き続き支配し続けることに成功した。 |
1919年 夏頃 | ヴランゲリ率いるロシア白軍。ポーランド軍の攻勢に乗じツァリーツィンへ侵攻。ツァリーツィンを奪還しモスクワへ向けてさらなる前進を開始したが、それ以上は赤軍の頑強な抵抗とコーカサス方面での反乱の兆しにより前進できなかった。 |
| 赤軍、シベリア方面にて大規模攻勢を開始。11月までに臨時全ロシア政府首都オムスクを陥落せしめ、アレクサンドル・コルチャークやグリゴリー・セミョーノフは極東ロシアへ撤退する。 |
1919年 冬頃 | 赤軍、極東方面にてさらなる大規模攻勢を実施。オホーツクまでを奪還する。しかしコルチャークとセミョーノフなど臨時全ロシア政府閣僚などはほぼ全員が日本軍占領地まで亡命に成功。 |
1920年 初頭 | 日本、シベリアの占領地を沿海州共和国として独立させる。初代大統領にはコルチャークが就任。また北樺太とコマンドルスキー諸島を編入。赤軍はモスクワに迫る白軍・ポーランド軍に対処すべく日本軍及び沿海州共和国と停戦。 |
1920年 春頃 | ポーランド軍、シベリアの赤軍部隊が帰還する前に講和を結ぶべく大規模攻勢を開始。スモレンスクなどを占領するも赤軍の大部分は撤退に成功する。 |
1920年 4月 | ウクライナ人民共和国、ポーランドとの同盟を締結。ポーランド軍はウクライナ方面でも大規模な攻勢に打って出る。なお西ウクライナ人民共和国亡命政府などはこれを不服に思い一部はネストル・マフノ率いる黒軍に合流する。 |
| ベラルーシ人民共和国亡命政府、ポーランド支配下のベラルーシに帰還するも事実上のポーランド傀儡国となる。 |
1920年 夏頃 | ラトビア・エストニアとの講和、北西軍制圧地域がフィンランドへ引き渡された事に伴う北西戦線の消滅は、赤軍に当時モスクワ前面にまで迫りつつあったポーランド軍に対し十分な兵力をぶつける事を可能とした。 |
| 赤軍、大規模反撃開始。セミョーン・ブジョーンヌイ率いる第1騎兵軍や若手将官のホープであるミハイル・トハチェフスキーの指揮の下モスクワに迫りつつあったポーランド軍を撃退する。 |
| 南部ではヨシフ・スターリンが政治委員を務める軍がツァリーツィンを陥落せしめ、コーカサスの白軍政権臨時首都エカテリノダールへ向かいつつあった。 |
| この頃、マキシム・ウェイガンを団長とする連合国軍事顧問団が派遣される。しかしこれはポーランド政府を英仏の影響下におこうとするものであり、ポーランドに混乱をもたらすことなった。 |
| この時期、ベラルーシやウクライナで赤軍は大規模な徴発を行った。長引く内戦、干渉軍との戦いと多数の戦線を抱える赤軍にとって行わざるを得ない行為であったが、 しかしこれが同地の反ソ感情を大いに刺激し、またポーランドもこの行為を大々的に宣伝し激しく煽った。 |
1920年 秋頃 | ドニエプル・ダウガヴァの二つの大河沿いに防衛線を敷くことに成功したポーランド軍は、白軍と共同歩調をとることを決断。 戦後のウクライナ・ベラルーシの独立とポーランド・コモンウェルスの形成を認めさせるべく、連合国軍事顧問団の反対を無視し赤軍に対し一大反攻作戦に打って出ることを計画する。 |
| これまで赤軍の小規模部隊とにらみ合っていたバスマチ蜂起軍、日英の支援を受け大規模反攻作戦を開始する。エンヴェル・パシャが率いる日英の支援を受けた新鋭軍は一挙にカザフスタン方面にて大攻勢に打って出た。 |
| ロマン・ウンゲルン、モンゴルに侵入し中国軍を撃破。ボグド・ハーン政権を再生するも自らはその政権を強い影響下に置き、事実上モンゴルの独裁者として振る舞うようになる。 |
1920年 冬頃 | バスマチ軍の大規模攻勢に対ポーランド・対白軍の兵を引き抜かれた赤軍は、同時に開始された両軍の大規模反攻作戦の前に戦線崩壊。瞬く間にベラルーシ・ウクライナ・コーカサスの占領地を失っていくこととなる。 |
| 白軍はさらにツァリーツィンの攻略に取りかかるも、スターリンがかき集めた軍が頑強な抵抗を見せついにツァリーツィンを奪還することは叶わなかった。 |
1921年 3月 | 赤軍、ポーランド及びバスマチ軍との講和を決断。スモレンスク会戦にてポーランド軍に打撃を与えることに成功した赤軍は3月18日に停戦とポーランド・コモンウェルスの形成と独立を認めたリガ条約に調印することとなる。 |
1921年 春頃 | 赤軍は中央アジアにて大規模反攻を実施するもパシャ率いる新鋭軍の前にブハラを陥落させることが叶わず、イギリスの仲介により新たにこの地に成立した新国家トルキスタンの独立を認め停戦することとなる。 |
1921年 | 大きな代償を払いつつも白軍以外との講和を成立させ戦力を集中投入できるようになった赤軍であったが、既に白軍はヴォルガ川とドン川に強固な防衛線を敷き終えており、 また英仏軍、ポーランド・コモンウェルス軍の支援は継続されていたためついにこの防衛戦を突破できず。1922年10月31日にフランスの仲介の元停戦条約が結ばれ、ロシア白軍はコーカサス地域に一定の政権を維持することに成功した。 |
| モンゴル人民党、ウンゲルンに対し反旗を翻すが、日本の支援を受けたウンゲルンがこれを鎮圧。ウンゲルン独裁体制は強化される事となった。 |
1922年 2月6日 | ワシントン海軍軍縮条約締結、会議開催直前に日本が行った超弩級戦艦「陸奥」の完成と、プリモルスクへの準弩級戦艦「安芸」(ハバローフ)と前弩級戦艦「石見」(オリョール)の譲渡及び返還が問題視され、最終的に英米は超弩級戦艦であるコロラド級2隻、ネルソン級2隻の建艦とオーストラリア自治領政府とニュージーランド自治領政府の2国に対し巡洋戦艦「オーストラリア」と「ニュージーランド」の保有、フィリピン群島政府(1935年よりフィリピン・コモンウェルス)に弩級戦艦「フロリダ」(フィリピン)の保有が認められることとなる。 |
1922年 3月22日 | かねてよりポーランドが先の戦争で大勝利を収めたことによりいにしえの連合共和国を復古させようという動きが加速していたリトアニアでの住民投票の結果、リトアニアはポーランド主導の国家連合であるポーランド・コモンウェルスに参加することが決定した。 |
1923年 | デニーキン回復、療養中にヴランゲリが旧帝国領土の独立を承認した事に不満を持ち、ヴランゲリと対立が深まる。その後同様の不満を持つ将校などと連携し復権する。一方ヴランゲリも多少勢力を低下させるも権力を保ち続けた。 |
1924年 1月21日 | ウラジミール・レーニン死去、スターリンが権力を握ることに成功する。 |
1924年 5月20日 | ジェプツンダンバ・ホトクト8世が死去、ウンゲルンはモンゴルの独裁政権体制を強固なものにするべく自らがチンギスハンの後継者にてモンゴルのハーンであることを宣言。これに異を唱えるものはことごとく粛清された。 |
1924年 8月31日 | キリル・ウラジーミロヴィチが全ロシア統合の象徴としてツァーリに即位。 |
1925年 | 1925年までにグルジア民主共和国・アゼルバイジャン民主共和国・アルメニア第一共和国が白軍の侵攻により崩壊し、白軍政権支配下に。白軍は後背の安全を確保する。 |
1926年 5月 | ピウスツキのクーデター発生。ポーランド・コモンウェルスも一時解体の危機にあったが、これが回避されコモンウェルスはポーランドによる各国の支配が強められつつも維持された。 |
1934年 9月12日 | この日、エストニア・ラトビア両国が合同しバルト連合国が成立。 |
1935年 5月12日 | ピウスツキ死去。 |